会いに行こう それはともすれば"愛に生こう"でもあるのかもしれない
エロ漫画家のせんせーと中学生の悠里のこいのはなし。
ぶっちゃけスタートからアウトの極みなわけだけど、セックスしてお泊りして先生の家から中学校に通うなんてエロ漫画かよ!!!!
居場所を求める少女と、その子を喰ってしまったクソロリコン男なんて構図はもしかしたらそれなりにあるのかもしれないけど、せんせーは優しい人なのだ。クソロリコンでメンタル弱いし押しに弱いしアレだけどさ。
せんせーは最初から独りだけど、悠里には家族も友達もいる。この話をかいつまんでしまうならば「青春の化物から逃げた男が青春の化物から逃げようとしている少女を立ち向かわせる」ということになる。逃げて孤独となったせんせーは悠里を受け入れてふたりで孤独になることもできたけれど、それをしなかったというのは、やはり優しさであり、愛でもあるのだろう。
ところでこの作品の中ではあらゆるところで言葉による対比が行われている。こいとあい、せんせーととうのすけさん、悠里と悠里ちゃん。
なんというか、せんせーや悠里というのはすごく箱庭的な存在で、六畳一間の閉鎖的な空間を象徴する呼び名だ。言ってしまえばそこで展開されるのはたったふたりだけの物語、他には誰もでてこない。
逆にとうのすけさん、悠里ちゃんなんてのは外部の世界ありきの名前だ。せんせーなんて星の数ほどいるし、外で悠里なんて呼んだらお巡りさんきちゃう。
そして物語のクライマックスで発せられる言葉、「もうこいは終わりだ、あいにいこう」この通り、こいからあいへ、悠里から悠里ちゃんへと転換していく。
そして悠里は青春の化物に立ち向かいいい方向に話は転がる。悠里はあいにいき、せんせーはこいつづけるのだ。
だけど、せんせーはこいつづけることを生きる糧とした。最強だ。この後どうなるのかはわからないけど、願わくばこいつづけたせんせーにあいにいってほしい。
というのが連載を読んだ時の感想だったのだけど、単行本の後書き読んで爆発した。
物語の頭から最後までいたフクロウ、ナレーションやらクッションやら大忙しだったけれど、実は六畳一間の登場人物でもあった。実際せんせーと話もしていたしね。
そのフクロウが実は悠里のオリジナルキャラクターって設定ずるいよ。せんせーの内的な対話相手としてのフクロウが悠里がいたから生まれたと考えると、「せんせーが悠里を変えた」という展開を大きくひっくり返してしまう。悠里があまりにも聖母。悠里という存在はとても大きかったんだと感じてしまった。
そして最後の書き下ろし漫画、おそらくね…